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第2話 玄関にあった女の靴

Auteur: 星宮 凪
朝八時半、怜司のマンションを訪ねた。

暗証番号は、今も彼の誕生日だった。

玄関には、見覚えのないベージュのパンプスがあった。

去年、私が送ったルームシューズは消え、代わりに色違いのスリッパが二足、きれいに並んでいた。

キッチンには、温められたままのオートミールが残っていた。

冷蔵庫には、丸い文字の付箋が貼られている。

『朝ごはん、毎日ちゃんと食べてね。沙耶』

怜司が寝室から出てきた。

白いシャツのボタンが、一つずれている。

私を見るなり、彼は腕時計に目を落とした。

「会社で待つように言ったはずだけど」

「荷物を置きたかったの」

「機密資料が増えている。今は置く場所がない」

ゲストルームの扉が少し開いていた。

ドレッサーには化粧水と香水。クローゼットには、沙耶のジャケットやワンピースが隙間なく掛かっている。

私はゲストルームを指さした。

「これはどういうこと?一時的に泊めているだけだって言ったよね」

「……」

「いつから?」

「二か月前から」

二か月前。

新居は片づいたのか、写真を一枚だけでも見たいと私が頼んだ頃だ。

怜司は忙しいと言って、返事さえくれなかった。

洗面台には、同じブランドの歯ブラシが二本、ひとつのスタンドに並んでいた。

「それまで確認するのか」

怜司の声が低くなる。

「僕と沙耶に何かあるなら、君との関係はとっくに終わっている」

彼は、身体の関係さえなければ、どれほど自分の生活に入り込ませても、裏切りにはならないと思っているらしい。

そのとき、玄関の電子錠が解除される音がした。

沙耶が朝食の入った紙袋を提げて入ってきた。

迷いもなくベージュのスリッパに履き替えた。

「紬さんもいたの?ごめんなさい、朝食は二人分しか買ってないわ」

怜司が袋を受け取る。

中には、人気店のフレンチトーストと、アボカドとチキンのサンドイッチが入っていた。

怜司はフレンチトーストを沙耶に差し出した。

「紬は甘いものが苦手だから。沙耶は甘いもの、好きだろ?」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

私は甘いものが好きだ。

書店の休憩室には、いつも小さな羊羹を置いている。

甘いものを避けているのは、沙耶のほうだ。

沙耶の表情が一瞬こわばった。けれど、すぐに小さく笑った。

「昨日から働き通しだもの。怜司も混乱するわよね」

午前中、怜司の両親が住む世田谷の家へ向かった。

玄関が開くと、沙耶は私より先に中へ入り、怜司の母に抱きついた。

「お母さん、会いたかった」

「あら、沙耶ちゃん。そう呼ばれると、本当の娘が帰ってきたみたいで嬉しいわ」

怜司の母は、真珠のブレスレットを取り出し、沙耶の手首につけた。

それは初めてこの家を訪れた日、将来のお嫁さんに譲るつもりだと見せてもらったものだった。

「それ……」

思わず声が漏れた。

怜司は私にだけ聞こえる声で言った。

「母の物だ。誰に渡すかは母が決める」

「でも、私にって……」

「昔の口約束だろ。そんなことまで覚えていたのか」

昼食の席で、怜司の父が私の仕事のことを聞いてきた。

私は東京への異動を話そうとした。

けれど、怜司の母が先に口を開く。

「地方書店の店長なら、東京でも同じような仕事は見つかるでしょう。結婚したら、怜司の生活を支えてあげて」

彼女は沙耶の皿にローストビーフを取り分けた。

「沙耶さんはこれから海外向けのブランド戦略もあるの。家事なんかで時間を取らせたら、会社にとって損失だわ」

「私も、自分の仕事を大切にしています」

「でも、ただ本を売る仕事でしょう?」

柔らかな笑顔だった。

だからこそ、その言葉は深く刺さった。

怜司は私をかばわなかった。

「今日くらい、穏やかに食事しよう」

午後には、共通の友人たちが上場祝いに集まった。

写真を撮ろうとした友人の画面に、トーク一覧の一番上に固定されたLINEグループが見えた。

グループ名は『怜司応援会』。

怜司、沙耶、そして学生時代からの友人たち。

そこにいないのは、私だけだった。

「このグループ、いつ作ったの?」

誰も答えなかった。

沙耶が代わりに言う。

「上場前は怜司も神経質になっていたから。紬さんには見せないほうがいい話もあったの」

友人の麻衣も、気まずそうに続けた。

「怜司と喧嘩したとき、沙耶がいつも相談に乗ってくれたの。紬にどう伝えれば納得してもらえるかって」

私の寂しさは、私の知らないところで、彼らの話題になっていた。

怜司からごくたまに届く優しい言葉さえ、沙耶が選んだものだったのかもしれない。

「私だけ外して、みんなで私のことを話していたんだね」

怜司が眉間を押さえた。

「ただのLINEグループだ。せっかく集まってくれた人たちまで責めるのはやめてくれ」

全員が、彼の側に立っていた。

私は一人、向かい側に座っていた。

東京と仙台を隔てていたのは、三百キロの距離だけではなかった。

彼らが一緒になって閉じた、見えない扉だった。
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